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updated 2017-02-17

萬代屋とは



萬代は昔、『もず』と読み、今の大阪府堺市百舌鳥地区から出た一族です。
古くは大古墳時代、野見宿禰を始祖とする土師氏の一派とされ、古墳造営や天皇の祭礼に関わっていたそうです。土師氏の中で萬代(もず=百舌鳥)に住む一族が萬代(もず)と改名したとされていて、桓武天皇の母、高野新笠の母である土師の真妹は、土師の萬代腹(もずばら)だとされています。土師氏には4派あり、四つ腹と呼ばれていますが、それぞれが秋篠、大枝、菅原などに改姓しました。その中の一人が菅原道真です。
萬代家は、堺の開口神社の神人(じにん)とされ、当初は塩を商っていたようです。南北朝時代には、戦乱の中、金剛山金剛峯寺の御影堂を独力で献納したとの記述があり、これが歴史に登場する最初です。
この後、萬代掃部助が秘薬『返魂反』を開発し、その子孫、常閑が岡山と富山にそれを広めました。これが富山の薬売りの初めと言われています。
戦国時代に入ってから、織田信長が登場し、石山合戦で10年余りと戦った、石山本願寺は、樫木屋道顕、萬代屋休意、松田某の萬代屋一門によって建立されたものでした。この時代から萬代(もず)から萬代屋となったようです。
その次に歴史に登場するのが、大茶人、萬代屋宗安です。堺きっての富商とされ、千利休の娘婿でもあります。宗安の子、宗貫は利休の嫡子道安の娘を娶り、その子與四郎へとつながり、與四郎は茶人として有馬侯に使えたとされています。宗安は戦国武将へのスポンサーであり、フィクサーでもありました。関ヶ原の戦いでは石田三成を援助したために、徳川方に追われ、福岡に逃げていた所を黒田長政に見つけられ、大名物肩衝茶入を献上して、黒田家の茶頭として一生を終えたいうことです。
宗安、宗貫、與四郎の後、萬代屋は営々と続き、萬代文軌が我が国初めての論語本を作ります。文軌は儒学者として知られていますが、『全堺詳誌』を書き上げています。
山口で醤油業を営んでいた萬代(ばんだい)利兵衛も一門で維新の志士を応援していたようで、私邸十朋亭はアジトとなっていたそうです。
萬代屋は明治の初め頃の資料によると、堺に3家あり、本家・安次郎と、宇兵衛、藤兵衛がそれぞれ当主を努めていた様です。安次郎が私の曾祖父にあたります。百舌鳥八幡内にある萬代寺によれば、明治になったときに、萬代と万代に別れたのだそうで、いずれも同じ一族であります。
私は偉大な先祖に恥じない人生を送らんとすべく、自ら『宗安』を名乗っています。雅号もそのまま『竹渓斎』を名乗らせて頂いております。
宗安の墓碑は堺の南宗寺にあります。